行政書士って何する人?

私たち行政書士は、「官公署に提出する書類」「権利義務・事実証明に関する書類」の作成とその代理、相談業務を行っております。但し、司法書士法、税理士法、弁護士法など他の法律で制限されているものは除かれます。 このように言われたところで何のことやらさっぱり分からないと思います。かといって行政書士が取扱える書類を具体的に挙げるとなるとその数は、「1万種類を超えるともいわれています」と日本行政書士会連合会のHP(http://www.gyosei.or.jp/service/services.html)に書かれている通り、枚挙にいとまがありません。

そこでザックリと一言。行政書士が行う業務の大半は「予防法務」であると思います。許認可の書類を作成するのも、言ってみれば「無許可・無認可」営業を未然に防ぐ行為と言えなくないでしょうし、契約書や遺産分割協議書の作成などはモロに後の紛争を予防するために役立ちます。

  行政書士は弁護士や認定司法書士と違って当事者が争っている案件に介入できず、専ら紛争を回避するための業務を担当しているわけですから、「転ばぬ先の杖」としての役割を担っていると言えるでしょう。「この書類にはこういう文言を加えておくと効果的ですよ」とか「そういう事業を始めるなら、こういった届出もしておくと後々有利ですよ」というように将来を見通した助言ができ、起こり得る不都合を予見してそれを回避するように導けることが必要だと思います。それこそ我々が日々精進して備えるべき能力であり、行政書士の存在意義であると考えます。

 ただ、予防法務が仕事である行政書士という士業は評価を得られにくい業種ではあります。弁護士などのように、相手と紛争状態にあったものを何らかの形で収束の方向へ持っていけば、依頼人は「あの弁護士が解決してくれた」と認識できることでしょう。しかし、紛争や不都合に至ることなく、平穏無事に暮らす人が「あの行政書士が、へたすりゃ陥ってた筈の不都合を回避してくれた」「あの先生が今の順調な業績をもたらしてくれた」などと認識することは極めて稀だろうと想像できますし、単発の業務だと記憶にすら残っていないでしょう。仕事の性格上、仕方ないことですけれど「行政書士って何する人?」と言われるのも無理ないことなのかも知れません。

 いつか将来、「最近、世の中の揉め事や争い事がちょっと減った気がしない?」なんて夢のような会話がティーブレイク中の会社の給湯室あたりから漏れ聞こえてきたとき、それは、圧倒的な実力を備え、しかも人知れず業務を遂行する「プロ」の行政書士が増えた証しと言えるかも知れません。 

避難用ジェットスーツがすぐそこに

空飛ぶスーツが完成している! テレビのニュースで放送(2018.7.19)された映像をyoutube(https://www.youtube.com/watch?v=OSZgRWF_eXo)で見た。ジェットスーツというものが完成していて、ロンドンの百貨店で販売しているそうだ。 私は大変喜んでいる。 以前「節電と津波からの逃げ方」でも書いたが、地震による津波や、この度の西日本豪雨のような災害に直面したとき、やはり人力で逃げるには限界がある。と言うかほぼ無理だ。であるならば空中に浮きあがって退避する外ない。 現在のジェットスーツは使用するために訓練を必要とするそうだが、ここまでくればお年寄りや子供が使えるようになるまでそう遠くないだろう。
高速で移動する必要はない。ふわりふわりと浮いていられればよいのだ。そっちの方が難しいのかなぁ。 毎年のように、と言うか、一年の内に何度も地震や台風、大雨で被害者が出る日本であるが、技術大国とも言われた国である。リュックのように背負える緊急避難用ジェットスーツを早急に作って欲しい。2018.7.20 

節電と津波からの逃げ方

 上方の落語家・二代目桂枝雀が生前、落語の枕であったか「枝雀寄席」のトーク中であったか、こんな内容の話をしていた。

 「人間はいつまで雨降りの日に傘を差すのでしょうか。日進月歩科学技術は進んでいるのですから、傘なんてものを差さんでも、レーザーか何かでこう、頭の上に落ちてくる雨粒をはじくような機械ができてもよさそうなもんですが、いつまでたっても人間は雨が降ると阿呆の一つ覚えのようにやっぱり傘を差しておるのでございます(注・言い回しは筆者)」。
 4000年程前から人間は傘を使っているらしいが、枝雀師が亡くなって10年以上たった現在でも雨の日はほとんどの人が当然のように傘を使っている。

 台風などの情報を伝えるテレビニュースで横殴りの雨のなか、骨が折れ曲がって元の形を失っている傘を全身ズブ濡れの状態になりながら大切に握りしめている人々の様子がよく映し出される。パンツまで濡れてしまって今さら雨粒を避ける意味は無く、また傘は既に雨をさえぎる性能を失ってしまっている。風を受けることによって却って歩きにくいし、差している本人や周りの人にとって危険な代物となるにも拘わらず、人はどんな形状になろうと雨が降っている限り傘の柄を握っていたいようだ。人間の滑稽なまでの傘への愛着というか、執着というか、「傘じゃなきゃダメなの」という思いのせいで、それに代わる雨よけのアイテムを作ろうという発想が生まれないでいるのだろうか。それとも雨を避ける効果を発揮する技術の開発は人間にとって相当難しいということか。

 昨年の原発事故以来、様々なメディアから「電力需給の見通し」だとか「でんき予報」といった「節電」を促すワードが引っ切り無しに伝えられるようになった。本音のところは分からないが、電力会社からは「計画停電を避けたいから」ということで節電のお願いチラシがよく届く。夏に生まれたからかどうかは知らないが、私は昔から夏が好きなので、暑いのは然程苦ではない。しかし万人が経験しているとおり、エアコンが効いた涼しい場所から一たび出た瞬間の外気との温度差は暑さに対する苦痛を倍増させる。また、特に女性などはエアコンの効いた場所に居つづけることによる「冷え」が逆に苦痛になってしまうということを聞く。電力会社のチラシのお蔭で節電意識も高まり、最近よく「エアコンという手法ってどうなの?」と思うようになった。

 身体が暑さを感じる原因として、周囲の気温と体温の差が関係しているのだそうだ。温度は高い方から低い方へと伝わるそうで、気温が体温と同じくらいかそれ以上になると身体の熱を外に捨てられず体内にこもってしまうため「暑い」と感じるらしい。だから周囲の温度を下げることで体内の熱が捨てやすくなるためにエアコンが有効だということだろう。しかしどうも隔靴掻痒の感を拭い去れない。身体を冷やすという本来の目的のためにその周囲の空気をわざわざ冷やすということである。故事で言えば何だ。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ということか。多分違うだろうけど。いずれにせよやり方としては迂遠である気がする。身体を直に冷やすことができるのであれば周囲の空気など冷やす必要はないのではないか。

 肩こりや腰痛のための製品で患部に直接貼るピップエレキバンという家庭用磁石入り絆創膏がある。その要領で身体のどっかの部位に特殊な絆創膏を貼り付けるとツボが刺激されて体温が下がる、なんて製品はできないものだろうか。身体に吹き付けることで体温を下げるスプレーなどの商品は既に存在するようだが、個人個人でその人に応じたクールダウンができれば、オフィスの温度を一律に設定することにより、外回りから帰った人には暑く感じられ、ずっとその場にいる人には寒すぎるという、身体にも人間関係にも良くない環境が改善されると思うのだがどうだろう。そして何よりエアコンの電気代が必要なくなるので節電を促す電力会社が喜んでくれる。

 今年4月9日の徳島新聞に津波対策として可動式防波堤の記事が載っていた。長方形の鋼板を立ち上げて高波を防ぐ「フラップゲート式」と海に向かって横一列に配置された直径1メートルほどの円柱形の鋼管が海面上に浮き上がって高波を防ぐ「直立浮上式」の2種類の候補が上がっているそうだ。どちらになってもその装置を配備するには膨大な費用を要すると考えられるが、5年先か100年先か、いつ起こるとも知れない災害本番に確実にしかも迅速に作動して間違いなく被害を食い止めることができるのであれば大変結構なものである。

 昨年の東北での津波の映像を見て感じたのは波の高さはもちろんであるが、やはりその速さである。恐ろしい速度ですべてをなぎ倒し、飲み込みながら陸地を駆けのぼっている。人がまともに競走して勝てる相手ではない。日本の海岸線で津波の被害を受ける可能性のある場所すべてに可動式防波堤を配備できればよいが、恐らくそれは無理なので、せめて津波の速度を鈍らせることはできないだろうか。料理にとろみをつける水溶き片栗粉のように、海水に反応して広東麺のスープのように津波の速度をトロくする薬品ってないものか。あのような巨大な力をもった津波を跳ねのけるというのは大変なので、「海水とろみ付け薬」を沿岸部に配備することで、せめて高台へ逃げるだけの時間的猶予を与えて欲しいものだ。

 あと、津波だけでなく大雨等による洪水時にも有効だと思うのであるが、リュックのように背中に背負うタイプでエアバッグみたいに膨らむ「一人用ガス気球」ってできないものか。小一時間程度の間、地上5〜10メートルあたりを浮遊したのち、ゆっくりと降りてこられるという避難用装備が開発されると助かる。瓦礫の散乱する地上を歩くか走るかすることにより高台へ逃げきれるなんていう甘い考えはいい加減に捨てないと。いくら非常用の食糧だの水だのをリュックに詰め込んでいても、結局は「命あっての物種」である。非常食を大量に背負ったまま濁流に飲み込まれたのでは意味がない。

 台風の日に懸命に傘を差している人の映像を見るたびに、枝雀師匠の話を思い出すと共に人間って無駄なこと、あまり意味のないことに大変なエネルギーを費やしているのかも知れないなと思ってしまうのである。 (2012.7.22) 


原発反対・小出裕章さん講演

 日本という国を地球上から抹消しようという勢力が存在しているんじゃなかろうか)2月18日、「アスティとくしま」にて行われた京都大学・原子炉実験所助教、小出裕章さんの講演を聞いて、私はそう思った。 原発問題に関して著作物も多く、マスコミからもたびたび取材を受けている著名人が講師であるとは言え、今回の原発事故現場である福島県からはかなり離れた、直接的な影響の薄い徳島市での講演会に会場いっぱいの聴衆が集い、冒頭、小出さんご本人も驚きの気持ちを述べられていた。徳島の人間であっても子供を持つ親や、食品の安全性に気を使う人にとっては関心の高い問題であろう。 しかし、小出さんはお話が進む中で集まった我々に対してこう断言した。「この会場には小さな子供さんもいますが、子どもたちを除いて、今ここにいる大半の人には日本に原発を54基もつくってしまったことに対する責任がある」と。 数年前、実家がある海部郡海陽町の隣町、高知県東洋町が高レベル放射性廃棄物の最終処分事業の文献調査に応募した。当時私は「よりによって隣町に来なくても」と思いつつ、「ガラス固化体」ってどういうものなのか、廃棄物の搬入は海路を使うのか陸路はどういったコースをとるのかとか、土中に直に埋めるわけはないだろうから何らかの構造物を地下に建設するのであろう、どんな素材を使ってどのような工法で造るのか知らないが、100万年先まで持つ建築物が本当に造れるのだろうか、などと多少ではあるが自分なりに調べたり気を揉んだりしたのを覚えている。しかし応募したのが隣町でなく、例えば東北のどこかの聞いたことも無い名の町であったとすれば、率直に言ってまったく関心を持たなかっただろうと思う。小出さんは当時、東洋町へ赴いて「そんなことはやめなさい」と住民を説得されたそうだ。 日本人の大半は、日々忙しく暮らす中で放射性廃棄物の処分候補地として手を挙げた聞いたことも無い小さな自治体のことなど気にせずにいて、今回の福島第一の事故があるまで日本に54基もの原発があることすら知らなかったのではなかろうか。実際私はその一人である。 自分たちの知らないどこかで誰かが何とかしながら生み出した商品やサービスに囲まれ、私たちは今の暮らしを享受している。 お笑い芸人・なかやまきんに君のギャグで「健康のためなら死んでもいい」というのがあった。本末転倒のような近視眼的発想を揶揄する笑いであろう。原発は事故なく安全に稼働したとしても常に「死の灰」を生成する発電所なのだという。今のように「(電力をふんだんに使える)快適な暮らしのためなら死んでもいい」という価値基準に世間一般が移行しているのであれば最早前出のギャグは笑えない。 先ごろ原発の耐用年数を40年、例外的に20年延長して60年とするというニュースがあったが、日本政府は福島第一原発事故を抱えながらなお、老朽化の進む他の原発をできるだけ長く使いたいようだ。 小出さんの講演後に質疑応答の時間が設けられていたが、数百人の聴衆の中には質問者も多く、私は挙手し続けるも結局司会者から指されることはなくて残念ながら時間切れ。原発から生まれる放射性廃棄物を人体に対して害がないよう処理するという研究がどれだけ進んでいるのかお聞きしたかった。 後で調べてみると、ネット上の動画で小出さんは「生み出した放射性廃棄物を無毒化する力は人間にはありません」と仰っていた。まさか! 本当ですか、先生。 放射性物質といっても人体に対する毒性の強弱、毒性が無くなるまでの期間などに違いのある何種類もの物質があるそうであるから、個々に処理の方法は異なるのではと素人ながら考える。また燃料プールに保管されている状態の物質と外界に放出されてしまっている状態の物質ではそれぞれ対処の仕方が変わるのではなかろうかと想像する。 世界に冠たる日本政府が、福島や周辺地域の人々を住み慣れた土地から退避させ、住居を放棄させ、仕事をも奪い、家族を離散させておきながら、尚且つ古びてゆく既存の原発を稼働させ続けると言うからにはその設備にしても管理体制にしても生成される廃棄物の処理方法にしてもちゃんと目途がつき、確かな自信があるからに違いない。日本ほどの国家が「そのうち学者が放射能の安全な処理方法を開発するだろうから」といった、一か八かのギャンブルみたいないい加減さで事を進める筈がない。相当の勝算があってのことに違いない。 ネット上で見た情報によると猫はうんちの後、それを土に埋める習性があるらしい。行動の理由としてニオイを消すことによって自分の気配を隠し、外敵から身を守るためという説があるのだそうだ。 自分にとって不都合な物は穴を掘って土の中に埋める、などという猫並みの知恵しか人間は持ち合わせていないなんてことがあろうか? 高レベル放射性廃棄物は「地中に埋めてその後100万年先まで管理します」なんて冗談はもういいので、拡散している放射能の処理も含め、すべての廃棄物の無毒化の方法とその実施予定を明示してもらいたい。まさか「土の中に埋めて隠す」がマジで唯一の方法ではあるまいな。ネットで検索しても素人であるせいか私には確たる情報を掴みきれないのだ。誰か教えて呉れないか。 放射能の影響の受けやすさ、被曝する度合というのは50歳以上の人間と0歳児では大変な違いがあり、成長期にある幼児は年寄りに比べ数百倍も敏感なのだそうだ。 国内の老いさき短い年長者にはちょっと「洟を引っ掛ける」程度で放置し、妊婦や次世代を担うべき小児、無防備な赤ん坊だけを選んで照準を合わせるという殺し屋がもしいるとすれば、彼は確実に、そして効率的にその種族を根絶やしにすることを企図している。 日本という国を地球上から抹消しようという勢力がどこかに存在しているのだろうか、それとも「世界で唯一の被爆国であったにも関わらず原発の放射能で自滅」し、他の国の人々に対する反面教師として人類が生存するための教訓を与えるために、かつて日本人が好んだ自己犠牲の精神を発揮して壮大な滅亡劇を演じようとしているのか。 ただでさえ少子高齢の国であるのに次世代の貴重な担い手を保護しようとしないどころか、むしろ排斥する方向をとっているかに見える環境、社会情勢を鑑みるとき、日本という国は地球上での存在意義を全うして民族としての寿命を終えようとしているのではないだろうかとすら思える。 常日頃楽天的な私であるが、いささかブルーになった講演であった。(2012.2.19)


 養老孟子さんの講演をもとに

 2月5日、美馬市の主催で「消費者問題啓発講演会」なる催しがあり、養老孟司さんの「人はなぜだまされるのか」と題する講演を聞くことができた。

 養老さんは講演中、「自分が書いたり喋ったりする事の内容について、『責任を持て』なんて言われたら何も書けないし、何も言えない」というような発言をされた。私も今回養老さんに倣って「発言者の真意を取り違えてはいないか?」「聞き違いをしてはいないか?」「文脈はとっちらかっていないか?」などなど、当コメントを書き進める上で生ずる逡巡を出来るだけ振り払ってサクサクと筆を進めようと思う。

 第二次大戦の終戦直後、当時小学2年生だった孟司少年は、かつては戦意高揚を謳った文言が記されていた箇所があちこち墨で塗り消されている教科書を見て、都合が悪くなったら後から消せばそれで済むのであれば、書いている事って信用できないなと思ったそうだ。今の若い人たちはどうか分からないが、年配の人たちはテレビで放送されたことや新聞に書かれていることを特に疑いを差し挟むことなく信じているのではないだろうか。私なども、中々におめでたいオツムを備えているため、結構「へぇ〜、そうなんや」と受け入れてしまう方だ。

 養老さんによると、某テレビ局がニュース番組など、報道に関しては常に「公平、客観、中立」な放送をしているというけれど、そんなことは有り得ない、出来っこないというのだ。
 「円錐」を例にとって説明されたのだが、真横からだと円錐は「三角」に見えるが、真上から見るとそれは「円」である。ニュース映像も結局はそれを撮影した一人のカメラマンの視点、言わば主観に過ぎないわけで、「公平、客観、中立」であるわけがないと仰った。つまり、本当は〇の部分もある相手について、意図的であるかどうかは別として、我々は△であると見せられて、そう認識してしまっている可能性がある。

「皆さんが思った常識は『その時』の常識。正しいかどうかは分からない」

「客観的な事実が世の中には存在していると思われているが、そんなものは神様にしか分からない」

「我々が当たり前だと思っていることはもっと検証してみる必要がある」

 などと講演の随所で発言され、起こった出来事や与えられた情報を一面的に捉えたり、鵜呑みにするのではなく極力自分の頭で慎重に考えるべきだということを重ねて仰っていた。

 「何が正義なのか分からない」という発言から「振り込め詐欺も、取った人がそのお金を正しく使ってくれたならばそれは『所得の再分配』なんですけど」に至っては養老さん一流の冗句(joke)であろうが、しかし物事は余りに考え過ぎると本当に答えが出なくなってしまう恐れはある。

 下手にいろんな情報を得てしまったばっかりに却って正解が分からなくなるということはよくあることだ。
 例えば、コンビニで万引きを繰り返す男子中学生がいたとする。初めの1、2度は注意だけで宥恕するも、ほとぼりが冷めるとまたパンやら菓子やらを万引きしていく。さすがにブチ切れた店長は逃げようとする少年の首根っこを掴み、引きずるようにして事務所に連行。しかし謝罪どころか一切口を開かず不貞腐れているので、警察を呼んで引き渡した。後日その少年の家は母子家庭で、母親は入院していることが判明。少年は万引きしたパンや菓子を一口も口にすることなく、すべて小さな弟、妹に与えていたという事実を知らされたとしたら・・・。つぎ、仮にその少年が万引きするのを目撃したとして、前回とまったく同じ力加減で張り倒し、そのやせ細った首根っこを掴んで引きずり回すことができるだろうか。

 裁判官なんかは争う両者の言い分をそれぞれすべて聞いてそれらを吟味した上で一つの答えを必ず導き出さなければならないのだから他人事ながら大変だろうなあと思う。いずれにせよ広い見識を持った、物事を多面的に考えられる頭のいい繊細な人というのは凡人と違い、何か一つの判断をするに際して多くの要素や選択肢を検討することになるであろうから必然的に苦悩の数も多くなることだろう。


  今年もはや2月に入った。日本的バレンタインデーは時代と共に変化しているそうだが、かつての「義理チョコ」から「友チョコ」、家族に贈る「ファミチョコ」、お世話になっている人に贈る「世話チョコ」など、贈る相手にしてもその意味にしても、最早何でもありの様相である。振り込め詐欺と比較するつもりはないが、これもどこかの誰かに騙されて、小銭を吸い取られているという気がしないでもない。

 「食うか食われるか、騙すか騙されるかというのは自然界には普通にあることです」と養老さんは言う。頭がいいばっかりにあれこれと常に気を回し、苦悩は多いが人に騙されることはないという人と、然程物事にこだわることはなく、騙されているということさえ気付かずにいる人。どっちが幸せなのだろうか。答えは分からない。

  「忘れっぽいのは素敵なことです、そうじゃないですか〜」。浪人生時代、来る日も来る日も聴いていた中島みゆきの歌の一つにこういう歌詞があった。当時は「忘れっぽいことは決して素敵ではない」とツッコミながらその歌を聴き、自らの記憶力の悪さを恨めしく思っていたものだ。私の場合、ちょっと悩むことがあったとしても一晩寝ると大概のことは忘れてしまうという性質(たち)は当時からそう変わらない。しかし、忘れっぽい頭というのはそう悪いものでもないな、と今は思っている。 (2012.2.7) 

100%成功(!?)の禁煙法②

 タバコを止めたい理由は人それぞれ色々あるだろうが、特にそれは何だっていい。ほんの少しでも止めたいという気があるのであれば止めた方がいい。

 禁煙補助剤といった類のものは一切必要ない。私は当時、念のためにと禁煙ガムや禁煙パイプを用意しておいたのであるが、結局使うことはなかった。いついつを以って「禁煙するのだ」という強い決意もいらない。用意するのは使い捨て100円ライターのような、出来ればガスの残量が見えるライター。そのライターのボディに「最後のライター」とか「このライターでおしまい」といった言葉を書いた紙を貼り付ける。つまりこのライターのガスが切れたときにタバコをやめるといった意味の言葉を何でもいいので書いて貼っておくのだ。100円ライターとはいえ、使い方によっては数か月はもつものだ。その間、タバコに点火するたびに「ああ、このライターが最後なのか」とか「これが切れたらもうタバコは吸えないんだなぁ」などとしみじみ思いながら存分にタバコを堪能する。重要なのは点火の際、ライターに貼り付けた文字を眺めながら必ずそう思うことだ。1日20本吸う人は20回、100本吸う人は100回そう思いながら日々タバコを楽しむ。そのことを使い捨てライターのガスが切れるまでの数か月間続ける。

 「何だ、単なる自己暗示か」という人がいるかも知れない。その通り。単なる自己暗示である。しかしこれがホント効くのである。暗示の回数が多ければ多いほど、期間が長ければ長いほどその効果は増大するのではないだろうか。

 ここで想像力豊か、且つ現実的な人なら気付くと思うのだが、ライターが切れたとき、ちょうど一箱全部を吸いきれず、まだ何本か残った場合はどうするのかという疑問があるかも知れない。むしろ残る可能性の方が圧倒的に高いと言えるが、そこはそれぞれ自由に決めればよい。19本残ってもすべて捨ててしまうのだ、と予め決めておいてもよいし、その箱のタバコに限り全部吸うと決めておいてもよい。ちなみに私の場合も数本残ったのだが、かねてから決めておいた通り、残りはマッチを使って全部吸いきった。そしてそれ以来、今日まで一度もタバコに触れたことがない。

 上記の方法だけでも一応タバコを止めることはできる筈だ。試してみて欲しい。私自身も当時、止めることについて信じられないくらいあっさりと納得している自分に驚いた。私の場合、更にそれに加えて、ラッキーな発想というか、思いつきが重なった。それは何か。「タバコを吸うことはカッコ悪い」という観念である。たまたま偶然に訪れたイメージなのだが、「タバコを吸う」という行為と赤ん坊が「おしゃぶり」をくわえている様子がオーバーラップしてしまったのだ。これは私にとってかなり衝撃的な思いつきであったが、今となってはその発想に囚われてしまって抜け出せなくなっている。

 「ええ大人がなにチュウチュウやっとんねん」。タバコを吸っている自分自身を客観視すると恥ずかしくなってしまった。この観念は自分がタバコを吸い始めるきっかけとなった原因の一つを完全に叩き潰してしまったのだ。

 松田優作扮する殺し屋・鳴海昌平。眉間に皺を寄せ、ライフルスコープを覗きながら狙撃現場を下見する鳴海の口元にはbibiのLサイズおしゃぶり(昼用)が無造作にくわえられている。実際の狙撃時にはそれは夜用に代わるのであろうか、などと想像をたくましくして思い浮かべたその映像からは、笑えてしまう分、残念ながら純粋なカッコよさを感得できない。

 「止めたい」と思っているにもかかわらず止められない人は自分がタバコを吸い始めた原因、当時の「意識」を思い起こして欲しい。「意識」によって始まった習慣なのだから、その「意識」を変えること、場合によっては否定してみることで驚くほど簡単に止められるものである。

 数年前、禁煙がテーマのテレビバラエティ内で、こんなことが言われていた。「例え何年タバコを止めていようとも、過去にタバコを吸っていた人が、1本でも吸ってしまうと簡単に喫煙の習慣は戻ってしまう」と。実際そうなのだろうと思う。つまり、夜寝てから朝起きるまでタバコを「6時間吸わなかった」という人と「20年間吸わなかった」という人は長さの違いはあっても、一定期間「禁煙していた」というだけのことで、両者とも同じ「喫煙者」なのである。だから死ぬまでタバコを吸わずにいて初めて「あの人はタバコをやめた」と言われるのだろう。それまで油断はしないほうがよい。 (2011.9.8) 

100%成功(!?)の禁煙法①

  のっけから断り書きで申し訳ないのであるが、「100%(!?)」と言ってもこの方法は男性喫煙者にとって有効なものであって、女性喫煙者に対しては、効果のほどは分からない。その理由については以下に続く内容を見てもらえば納得頂けると思う。また、医学・薬学等、専門知識など無い一行政書士である私風情がぬかす「戯言」と、軽いノリでサラっと見て頂ければ幸いである。

 先ごろ厚生労働大臣がタバコ一箱の値段を700円まで引き上げても税収は減らない、との発言をしたそうだ。タバコが消費されると国や地方自治体にはタバコ税として貴重な収入になる。しかし一方で、喫煙が原因と見られる疾病を治療するために何兆円もの医療費が使われているとも聞く。金額の多寡はもちろん、両者を比較した場合、国にとっては吸った方が得なのか、止めた方が得なのか正確なところを私は知らないので言及もできない。ただ、世の趨勢は間違いなく止める方向へ流れていると言える。

 男性がタバコを吸い始めるきっかけは何か。このことはタバコを止めるにあたって結構重要なポイントとなる。これまでタバコの煙など(副流煙も含めて)吸ったことが無い人の「体」がある日突然、勝手にニコチンやタールを欲し始め、無意識にタバコに火をつけるなどということは考えられない。人がタバコを吸い始めるには何らかの「意識」が存在していて、それが喫煙開始の原因のすべてであると思う。肉体側からの欲求など無い。

 タバコを吸うと「大人びて見える」のでは、とかグループの仲間として「認めてもらえる」のでは、とか男として「カッコよく見える」とか「強そうに見える」といった他者との関係の中で自分の立場を確立したい、イメージを形成したいという「意識」により、味も何も分からぬうちにタバコをくわえ始めたに違いない。

 渡哲也、原田芳雄、藤竜也、松田優作などが演じた役柄で、「タバコの似合うカッコいい男」たちがかつては映画やTVの世界にいて、殊更カッコよくタバコを吸っていたものだ。少なくとも私は喫煙を始める原因として間違いなくモロに影響を受けている。90年代半ばに高倉健がLARKのCMに出演している。「大人になりたいと思ったことはなかった。いつも、男になりたいと思っていた」とはそのCMでの高倉健のセリフである。YouTubeなどでまだ見られるかも知れないので早く見てごらんなさい。あれを見て「カッコいい」と思わない男が果たしているだろうか? いやいまい。気を抜いて見てると「カッコいいぃ〜っ」と思わず言葉を発してしまう恐れがあるので注意して見て欲しい。

 「カッコいい男がタバコを吸う」のを見て「タバコを吸う男はカッコいいノダ」という赤面すべき勘違い、後件肯定の誤りを犯してしまった男性は私を含め多いに違いない。

 初めは単なるポーズとしてタバコをくゆらせているに過ぎず、「俺、今ひょっとしてカッコいいんじゃないか」という自己満足が得られること以外は全く無意味であるその行為がやがて自身の行動の一部として習慣化することになる。

 ニコチンの離脱症状ってそんなに耐え難いものなのだろうか。仮に1日に20本吸う人が18時間起きて活動しているとして、1時間当たりに吸うタバコの本数が約1.1本。1時間に1本以上は吸わないと我慢できないと本人は思っているのだろう。しかしその人が寝ている間にニコチンが切れると1時間置きに飛び起きてタバコを吸っているかというとそんなことはなくて、6時間くらいタバコを吸わなくても身体の方は全然平気なのである。チェーンスモーカーでも単に「吸わないといられない」と錯覚しているだけのことで、5時間や6時間吸わなくても大丈夫、身体は本人が思っているほどニコチンを欲しているわけではないのだ、と思うがどうだろう。

 さて、長々と書いてきたが、これからが具体的な方法だ。

 日付などは覚えていないのであるが、4、5年前の11月末か12月初め、確かそのあたりに最後の一本を吸って、私は20年以上続いていたタバコを吸うという習慣を終わりにした。何故、止めた日を覚えてないのか、と問われれば単に日記やメモとして残していなかったからと言うほかないし、覚えておくほど重要な日でもない。そもそも、いつタバコを止めることになるのか、当時 自分でも分からなかったのである。 

 (へ続く。2011.9.8) 

児童虐待と芥川の「地獄」

 「人生は地獄よりも地獄的である」

 芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中、「地獄」の冒頭でそう言っている。彼が言うには、人が死んで地獄へ堕ちたとしても、そこで与えられる苦しみには一定の法則があり、ワンパターンで変化もなく簡単に順応できるものなのだそうだ。

 日本の仏教によると、罪を犯した後に死んだ人には閻魔大王ら十王と呼ばれる裁判官によって七日ごとに、「地獄の沙汰」といわれる裁判を受ける権利があり、罪状に応じて服役すべき地獄(等活地獄〜無間地獄という八種類の地獄)に適切に振り分けてもらえるそうである。

 人生、殊に子供たちの暮らし、置かれている状況ってどうなのだろうか。放射能汚染の問題については言うに及ばず、灼熱の車内に放置されて衰弱死、川や海での水難事故など子供たちにとっては危険と隣り合わせといった日々ではなかろうか。

 昨今、新聞などでは保護者等による幼児・児童の虐待死という記事が、特に注意して見ておらずとも「頻繁」と言っていいくらいの頻度で掲載されていることに気付く。子供の身になって考えてみたとき、この虐待死というのが、他の事件・事故と比較してもズバ抜けて悲惨であるように感じられる。暴力による肉体的苦痛はもちろんのこと、食事を与えられず徐々に弱っていく場合に味わう恐怖、そしてそれらを反復継続して感じ続ける時間的長さ。

 しかし、私が最も重視するのは彼らが感じたであろう「絶望」である。この世で唯一の味方であるはずの頼るべき相手から虐待を受け続けて死んでいった彼らの絶望の深さは正に想像を絶する。

 優しく頭を撫でてくれた同じその手で、虫の居所が悪いときは張りとばされ、温かく抱きしめてくれることもあれば同じその腕で、死ぬほど壁や床に叩き付けられる。食事を与えられず衰弱した身体にはひと際こたえる責め苦である。

「ちょっと、この子が何かそれ相応の罪でも犯したの?」法令を順守する地獄の閻魔さんが見たら、そう言って割って入るほど極めて感情的で無法則な所業である。確認しておくが、地獄へ送られたのはその人が罪人だったからである。謂わば自業自得であり、予測もできる。しかし、虐待を受ける子供にとって身に降りかかった責め苦は青天の霹靂に近い。愛情と暴行が無秩序に混在するその場に順応することは子供に限らず、大人にだって容易ではない。だからと言って幼い彼らにそこから逃げ出す術もなければ、よそから助けが来ることも無いのである。ここを措いて「地獄よりも地獄的」な場所が他にあるだろうか。

 虐待により短い生涯を終えた彼らが、極楽浄土で旨いものをたらふく食べて安楽にしていることをただ願うばかりである。しかし万が一、仮に間違って地獄へと迷い込んだとしても、人生という、地獄よりも地獄的な場所での責め苦に耐え続けてきた彼らである。法則を破ることのない木偶の坊のごとき餓鬼から掠め取った飯を携えて、「針の山」などピクニック気分で登れるだろうし、「火の海」なんぞはキャンプファイヤーに持って来いの代物であるに違いない。

 そう考えでもしなければ、最も身近にいる相手、保護してくれるはずの相手、そして誰より愛している相手から責め立てられた挙句、人生を奪われた幼い彼らの心情を思うとやりきれんじゃないか。

 「悪事を働けば地獄へ堕ちるぞ」という教え、或いは脅しが、犯罪の発生抑止を意図して広められたものだとすれば、地獄以上にえげつない現世に暮らす子供たち対しては残念ながらその効果は薄いと言わざるを得ない。

 絵画にしろ文章にしろ、地獄の描写にビビッていたかつての日本人に比べて我々現代人は極悪非道化が進行していると言えまいか。「地獄の責め苦など生ぬるい」と感じてしまう程に。 

 (2011.8.29) 

「長幼の序」と放射性廃棄物

 本日(7月5日)辞任した復興担当相と宮城県知事が先日宮城県庁で会談していた。「長幼の序」はその様子を切り取った映像の中で復興相が知事に対して使った言葉だ。調べてみると、長幼の序とは

「年長者と年少者の間にある一定の秩序。長じたものは幼い者を慈しみ、幼い者は長じたものを尊敬するというあり方」

なのだそうだ。そうか、なるほど。素晴らしい教えであり、望ましいあり方だ。

私が見たものはテレビ放送用の映像なので編集も施されており、会談のごく一部しか見られなかった。従って前後の脈絡など知ることはできないが、どうやら会談に臨むにあたって年下の知事が年長者の大臣を待たせてしまい、そのことを年長者として若い知事に教え、諭した際の発言のようだ。しかしその直後に続けて大臣曰く「今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わりだから」と。 何故?

言葉遣いは確かに乱暴な感じのする人であるが、大臣にとって分の悪い情報ばかり(私が見た限り)なので、敢えて大臣寄りに考えてみた。「オフレコです」発言の直前に大臣が言った、編集がされていないワンカット内の彼の言葉は概ね以下のようなものだ。

①「お客さんが来る時は自分が入ってからお客さんを呼べ」

②「長幼の序が分かってる自衛隊ならそんなことやるぞ」

③「しっかりやれよ」

オフレコにすべき「最後の言葉」はどれを指していて、何故オフレコにすべきなのか。

①の言葉が世間に出ると知事はお客さんを待たせながら謝罪もしないでヘラヘラしている失礼な人間だと思われかねない。知事が可哀想なのでオフレコにしてあげて。

②だとすれば、知事が年長者を敬わない無礼者だと勘違いされかねない。知事が可哀想なのでオフレコにしてあげて。

③だと、大臣と知事、主従関係にあるわけではないのにまるで子分のように扱われているように映る。県民の手前、知事が可哀想なのでオフレコにしてあげて。

といったところか。

「書いたらその社は終わりだから」発言の真意について、大臣の気持ちを慮り、それを代弁するならば「嗚呼、可哀想な知事。マスコミが彼を貶めるような記事を書こうとしても、大臣であるこの俺が必ず阻止してみせる」といった男気ある大臣の年少者を慈しむ心から発せられた・・・って無理だ。もう無理、これ以上庇いきれん。

「年長者を敬え、尊べ」と自ら言う年長者が、それを聞かされた若年者から尊敬されることは無い。これはもう100%無いと言っていい。私のこれまでの対人関係においては自分の方が年少者の立場に立つことが比較的多かったから、個人的な感想が影響しているのかも知れない(とは言え「俺を尊敬しろ」と年長者から冗談でなく本気で言われた経験は無いのだが)。しかし、今後仮りに50代、60代と生き続けるならば、立場の変化と共に認識も変わり、ちょっと冷遇され、軽んじられると耐えきれずに「年長者を敬え」と言ってしまう情けない年長者に私もなってしまうのだろうか。

「長幼の序」という言葉が出たのを機に改めて思うのは、現在この世に存在する自分より年少の者のことを考えるだけで充分なのかということである。今、日本でその是非について大問題となっている「原発」。

地方公共団体の首長の中には停止している原発の再開に同意する者もでてきた。「運転再開に向けて安全は確保」され、住民の理解も得られたことがその理由らしい。そこでの「安全は確保」とはどういう意味なのだろう。

4年程前、実家のある海陽町の隣町、高知県東洋町が、高レベル放射性廃棄物の最終処分場候補地として手を上げた。原発の使用済み燃料を再処理する過程で発生する高レベル放射性廃棄物。当時の町長は財政難を打開するため、調査を受け入れるだけで得られる莫大な補助金が目当てであった。地層処分のための調査を受けるだけで補助金がおりるなどというのはいかに原発事業が儲かるか、と同時にどれだけ廃棄物の処分に困っているかが素人にも察せられる。東洋町の場合は、出直し町長選による処分場反対派候補者の当選で応募は撤回されることになる。

高レベル放射性廃棄物は地層処分によっても人体に影響がなくなるレベルになるまで10万年とも100万年とも言われる期間、地表から数百メートルの地中で保管し続けなければならない代物らしい。その間の安全性は一体誰が、どの機関が保障するのか。地層処分の解説として現在の記述(経産省・放射性廃棄物等対策室HP 《http://www.enecho.meti.go.jp/rw/hlw/hlw03.html》)でも「放射性物質をガラスの中に閉じ込めて地下水に溶け出しにくくします」とある。完全に「溶け出さなくします」ではないのだ。

前述した原発の再開に関する「安全は確保された」の意味であるが、その原発の使用済み燃料については放射性廃棄物を安全に処理する方法が確立されたのか? それとも放射性廃棄物そのものが発生しないタイプの原発なのかな? 「確保された安全」の具体的内容については寡聞にして知らない。

年長者が年下の者から敬われ、慕われるためにはそれ相応の人間である必要があろう。10万年、100万年先の日本人が我われの「年少者」に含まれるとすれば我われは彼らにとって尊敬に値する年長者となり得るだろうか。「尊敬」だなんてとんでもない、ただ「不都合を押し付けてくるだけの身勝手で無責任な厄介者」と思われはしまいか。私も年をとったせいか、100万年後の年少者の、我われに対する評価を思うとすごく不安である。 (2011.7.5) 

九州新幹線CMに涙する理由

 

「震災でお蔵入りになっていたCMが凄いらしい」という趣旨の情報を6月25日頃のネット上のニュースで見つけた。なんでも海外で評価され、広告賞をとったそうな。「ふ〜ん」。で、何の気なしにクリックし、予備知識もなく3分ほどの動画を見た。その後、同じ動画を立て続けに何度も繰り返し見た。恥かしながら涙が止まらなかった。まったく初めての感覚であった。映像は単に九州の人々が開通した新幹線に向かって笑いながら手を振っているだけである。ただそれだけなのだ。(http://www.youtube.com/watch?v=UNbJzCFgjnU)余りにも泣いてしまうので「年のせいか」と思いつつも、少し落ち着いてからこのCMによりもたらされる感覚の素を自分なりに分析してみた。

「あの日、手を振ってくれて有難う・・・」集まってくれた人々に感謝の気持ちを表わすナレーションの素直さに感銘した? しかしナレーションが入るずっと前から俺は泣いてるぞ。

 BGMに心を動かされた? 誰が歌っているのか知らないし、歌詞の意味もよく分からん。でも活気あふれるこの音楽の効能は幾らかあるのかも・・・。

考えるに、どの程度の規模で行われたかは知らないが、撮影に先がけてCM収録の案内や趣旨説明などが制作者側から九州の人々に対してあり、また撮影当日の現場でも関係者による指示や指導、禁止事項についての注意など諸々演出的なことはあったと想像される。

「撮影日に沿線に集まって手を振ってください」とのCM制作者の呼びかけに喜んで応じる従順さ、九州の人々が新幹線に抱いている期待とそれをストレートに表現する無邪気さ、はたまた九州人の結束力の強さに感動したのか?「新幹線」という技術に対する称賛の念? いやいや新幹線自体は日本では半世紀近く前から走っているお馴染みの乗り物だ。もはや涙が出るほどには珍しくない。

沿線に集まってパフォーマンスする人々の中には開通を喜ぶという気持ちに加え、話題性を利用する商業的な思惑のほか、単に目立ちたいという自己顕示欲にまかせて張切った人もいたかも知れない。しかし出来上がったこのCMを見て「元気が出た」「楽しい映像なのに何故か涙が出た」などと多くの人が感想を述べている。

いろいろと考えた末、やがてひとつの(個人的で勝手な)理解に辿り着いた。

 感涙の要因はCMに使われている映像や音楽やナレーションそのものの中には少なく、むしろそれを見る側の自分自身の中により多く存在するのだと。

撮影したカメラマンの一人は撮影時を振り返って「(新幹線が)走りだしてすぐに、ジーンときた」とコメントしている。新幹線に向かって笑顔で懸命に手を振る人々を車中に据えたカメラで撮影したとのこと。カメラマンはカメラ越しに沿線に連なる彼らと向かい合っていた。ファインダーに映る彼らはすべて自分に向かって手を振っているかのようにカメラマンには見えた筈だ。CMを見る者はカメラマンが見た映像とまったく同じものを見ることになる。従って撮影カメラマン同様、視聴者にとってはまるで自分に対し、見知らぬ多くの人々が次々と笑顔で応援してくれているかのように見えるだろうし、そう錯覚するのも無理はない。

人というものが応援されると頑張ろうと思うものであれば、この錯覚は心地よく、嬉しくもありそして感激的であるに違いない。見知らぬ人から、しかも数え切れぬ人々から一どきに応援される機会は、スポーツ選手やタレント、政治家などを除けば、普通の一般人には無いのだから。また、はなから頑張る気の無い人、逆に既に充分頑張っている人から見れば「面白いCMだな」程度のものなのかも知れない。しかし、これから頑張らねばと思っている人、頑張るべきなのにあんまり頑張っていない自分を認識している人にとってこのCMは、無邪気で快活にサポートしてくれる感謝すべき「強烈な応援団」に映ってしまうのではないか。

子供の教育方法を考える上で「叩いて(厳しくして)伸びる子と褒めて伸びる子」というのがあると聞いたことがある。大人であっても余程ひねくれた考え方をする人でなければもっぱら厳しい批判を受け続けるよりも、応援してもらえれば嬉しく思い、心強く感じることであろう。その結果、実力以上の力が発揮できることもある。

将来を見通すに、ただでさえ閉塞感を否定できない日本において、重ねて起こっている今現在の大きな災難を日本人は越えていかなければならない。そうであるならば、このCMがその効果を示してくれたように、我われも我われのリーダーを一度、一所懸命手を振って応援してみてはどうか。もし彼が我われと同じ感性の持ち主であれば、そして人からの応援を有難いと思う感性が鈍ってなければ、涙を流しながら「頑張ろう」と思ってくれるだろう。

 それとも「既に充分頑張っているから」と軽く受け流されるだろうか。 (2011.6.27) 

蓮池透さんの講演で感じた事

 拉致被害者家族会 前副代表、蓮池透さんの講演会(徳島県三好市教育委員会等が主催、演題「二つの国のはざまで翻弄され続ける家族」)が6月1日に開催されることをたまたま知り、急遽であるが聞きに行った。講演冒頭で蓮池さんは東日本大震災と原発事故の発生により、拉致問題の話題がいささか霞んだような現状の中、人権教育として拉致問題を取り上げ、本講演会が開催されたことに謝意を述べられた。そのあと続けて、自身が二年前まで、東京電力に勤務していて、福島第1原発に於いても技術者として現場で作業していたことを自ら明かし、関係者として心を痛めている旨語られた。あとで調べてみると、ネット上では既にこのことは情報として流布しており、知っている人は知っていたのであろうが、私はこの時ご本人の口からお聞きして初めて知った。よくよく大問題に関わる星のもとに生まれた人である。

氏の外見については、以前テレビで見ていた頃はやたら背が高い人のように映っていたが、実物はそうでもなく、170台後半から180センチくらいに見えた。それよりも、かつてよくテレビに出られていた頃は強面(こわもて)で常に不機嫌そうに見えたものだが、今回、拝見してみると以前と違い穏やかで、柔和な表情になっているなあという印象を受けた。

私はこれまで、拉致問題について特に詳しく勉強したわけでなく、拉致問題関係者の講演等、直接お話を聞くのもまったく初めてで、これまでテレビのニュース等を時どき目にし、耳にして得た程度の誰でも知っているごく表面的な知識しかない。ただ、今回蓮池さんのお話しを聞き、拉致問題の解決は相当困難であるなという認識を得た。(講演内容を録音したわけではないので、以下は私の記憶と解釈に基づく記載であり、細かい語彙や表現方法について正確さを保証するものではないことをお断りしたうえで書きすすめます)

 現在、拉致問題は日本側の「早く返せ」、北朝鮮側の「やるべきことはやった」という主張で双方、平行線のまま膠着状態にあるらしい。日本政府は日朝間にある「核・拉致・ミサイル」問題について包括的解決を目指す方針なのだそうだ。しかし、「核・ミサイル」問題と「拉致」問題は性格が違うと蓮池さんは指摘した。前者は北朝鮮と世界各国の問題であるが「(日本人に対する)拉致」は北朝鮮と日本だけの問題である。だから拉致問題については個別に対策を立てるべきだと蓮池さんはおっしゃった。素人の私にその発言の意図を詳細に解説する能力はない。しかし「核・ミサイル」と「拉致」、両者の性格の違いは直観的にわかる。誤解を恐れずその直観を言葉にすれば、「核・ミサイル」問題は将来に向かっての懸念であるのに対し、「拉致」は日々どんどん過去へ遠ざかりつつある事実、ということだ。今現在この時も北朝鮮による新たな拉致が行われているのかどうか、私には知る由もないが、これまで現実に起こった個々の拉致事件は当事者には現在進行形であるにも関わらず、悲しいことではあるが、他の者にはとっては刻一刻と意識から遠ざかる出来事でしかない。批判を恐れず敢えて言い募れば、拉致被害者が仮に帰ってこなかったとしても我われ第三者の生活に直接的で重大な影響があるとは思えない、という思考が成り立つのを率直に言って否定できない。つまり「拉致」問題は他の二者と違って、絶えず誰かが積極的に注意を喚起し続けなければ意識の上から「消滅」してしまう危険性のある問題なのだ。直接自分に降りかかる、或いはその可能性が高い危難であれば人は敏感に反応できる。しかし自分や家族の身に絶対に起こらないとは言えないが、さほど現実味を帯びてはいない、また、独自に解決のための答を導き出せない問題を絶えず意識の上位に保持しておくのは非常に難しい。

「どこ行ったんだろうね」「早く帰ってくればいいのにね」

そんな結論の出ない堂々巡りの会話が繰り返されるだけの日々が続いていた当時、当事者である蓮池家の中ですら、決して忘れたわけではないんだけれど、(行方不明になっていた)薫さんの話題が一時期タブーとなっていたことがあったそうだ。増してや日々の生活に追われる拉致に無関係な家庭でこの問題が語られなくなってしまうことは想像に難くない。

青色のバッジを付けるだけで満足している政治家はいても拉致問題解決に向けて実行力のある政治家はいないのが現状であり、マスコミの報道も不十分であることを蓮池さんは不満げにおっしゃった。そしてそれらの言葉の裏に一体となって存在する蓮池さんの本音を私は推し量らないわけにはいかなかった。「国民の皆さんどうか無関心でいないでください」

言いたいのはこの一点に尽きるのであろうと。政治家を動かせるのは国民だけである筈だし、マスコミが飛びつき、取り上げるネタも国民の興味と無縁であるわけがない。

自分への直接の利益とは関係なく、社会全体の進歩、発展そして安全を希求する国民性。拉致問題は我われ日本人に対し、今より数段上の社会性を要求しているのだなあ、とそんな思いを抱かせる講演会であった。 (2011.6.2) 

業者さんからの電話営業

ホームページなるものを作ってはみたものの、最初の1か月2か月は何の音沙汰もなく、本当に見ている人間はいるのか知らん、と思っていた。ICTに疎かった私は(今でもほとんど分からんが)、本当に自分のホームページは他人が閲覧できる状態にあるのか、などと疑いながらも、未完成であり照れ臭くもあって友人知人に開設を伝えられずにいた。

 やがて聞いたこともない会社(多くは東京)から営業の電話がかかってくるようになったが、日本行政書士会連合会の検索システムで連絡先は分かるので、それをもとに新人の行政書士に営業をかけてる可能性もある。ホームページの「アクセス解析」で示される数字があるにはあったが、機能を熟知していない私にはあまり実感をもって閲覧者像をイメージさせなかった。

しかし、そうこうするうちに「SEO対策がどうの」「検索ワードがこうの」といった言葉が営業マンのトークに聞かれるようになった。

「この人、ホームページ見たのかも・・・」

とちょっとほくそ笑んだものだが、やがて営業トークの中でホームページの不出来をやんわりと批評してくれる営業マンがでてくるに至り、閲覧者の存在が、しかも私の方からアドレスを教えたのではない閲覧者の存在が明らかとなった。「見られてるぅぅ〜っ」と思いつつも極めて冷静に電話を切ったあとで小おどりしそうになったのを覚えている。営業マンは自社の商品やサービスを売り込む目的で色んな検索手段を使い、血眼になって顧客を捕まえようとした結果、たまたま私のホームページを訪れたのだろう。だが、「こんなの見てる人いるのか」と消極的な気分でいた当時としては感激したし、実際今でも嬉しい。

  私はかかってきた営業の電話に対してはすべて断るつもりで出ている。ただ、何らかの売り込み電話だと分かった途端に、その内容も聞かずに切るといったことはしないようにしている。一応営業マンのトークを時間の許す限り聞く。たまに2、30分に及ぶ商品説明がなされることがあるが、(最終的には断るのにこんなに説明させて悪いな)と内心思いながらも聞いている。何故ならそれは単純に、自分が逆の立場で、しかも案内している商品やサービスに対して自信がある場合、説明の機会が与えられないのは非常につらいだろうと感じられるからだ。

私自身、自営業者でありお客さんにサービスを提供する立場の者だと自覚している。だから営業マンのトーク、言葉遣いや態度は大変参考になり、できるだけ聞いてみたいという思いもある。営業マンには「時間の無駄なので、断るならできるだけ早く断って欲しい」と思うタイプもいるだろうから、そういう人にとっては迷惑この上ない相手である。そんな営業マンには「時間をとらせてごめんなさい」と予め謝罪しておきたい。

私の場合、生活する上で、また仕事の上で欲しいと感じたり必要だと思ったものは自分から調べ、自分にとって適したものを探したのちに手に入れたり、場合によっては我慢したりする。なので、知らない他人から突然紹介され、勧められたものに直ぐに飛びつくことはハッキリ言って無い。しかしこの世の中には私の知らない物事が無数に存在するわけなので、いきなりハートを打ち抜くような商品・サービスを携えた営業マンがベルを鳴らさないとも限らない。そんな夢のような期待を意識のほんの片隅に持ちつつ、ホームページを見てくれた営業マンのセールストークを今日も有難く聞いている。(2011.5.27)

日本人の凄さ

日本で起きた大震災に対して、数多くの国々や個人が支援の意思を表わし、実際に被災地での救援活動に人員や物資を提供してくれてもいる。メディアを通じてしかその内容を知ることはできないが、すべての日本人が感謝しているに違いない。

また、一部の報道で各国の反応として「物資を求める被災地の人々がスーパーやガソリンスタンドに整然と列をつくっていて、暴動や略奪の素振りもないことに驚嘆する」といった旨の記述が見られるが、私のような平凡で世間の狭い日本人からすると「よその国ではこういった際には略奪などが当然のように頻発するのか」と逆に驚く。


 日本人は「平和ボケ」とか「危機意識が足りない」と指摘されることがある。どこかよその国なら「暢気に列に並んでいて自分の前で物資が無くなったらどうするんだ」と危機感丸出しなのだろう。そういった国の人々からすれば日本人は愚鈍に映っているだろうか。この震災に関しては起こっている出来事、目の前の光景のあまりの非常識さに認識が追い付かず被災者は呆然としている部分もあるのかも知れない。しかし仮に人々が我先にと物資を奪い合う様を報道で目の当たりにすれば、他の国々はおろか、日本人ですら救援したいという気持ちに幾らか抵抗が生じるのではあるまいか。落ち着いて礼儀正しく健気に譲り合っている様子を見るからこそ心から被災地を支援したいと感じるのであろう。人の物を奪おうとする人間に好んで物を与えたいと思う人がいるとは思えない。これは日本人だけの感覚ではないと思うので、「暴動や略奪」が起こる国の人々は自らの危機に敏感過ぎて前後不覚に陥ってしまうのだろう。


 ただ日本人の場合、良かれ悪しかれ、物事を受け入れてしまう性質、諦めてしまう性質が体のどこかにインプットされているのかも知れない。また日本人はこうすれば支援が受けられるとの打算で整然と列を作っているのでは決してない。協調性や社会性の高さ、冷静さ、忍耐強さ、慎重さ、寛容さ、諦念などが綯い交ぜとなってできた行為であり、日本人の凄さの一つだろう。



 東北の人は辛抱強いといった勝手なイメージがあるが、いずれにしても限界はある。この期に及んでは、「誰が悪い」だとか「手際がどうだ」とか、ただ批判している暇はない。被災者と被災者の救援に当たっている方々、新たな被害の拡大を阻止しようと体を張っている方々が十分に活動できることを最優先にして国民が協力しないと。



 被災地域外の我々一般人が現地へ赴き活動することは現実的には無理であり、分相応の義捐金や物質的支援しかできない。それでもメディア等の断片的な映像を手掛かりに絶えず被災地の現状に対し想像力を働かそう。そして気力・体力も充実させておきたい。



 現在、被災地の方々が全世界に日本人の凄さを見せておられる。これからはすべての日本人がそれぞれの役割を考え、果たすことによって、国を挙げて日本人の凄さを示し、世界中の人々にご覧いただこうではないか。 (2011.3.17)

東日本大震災

自然を前にすれば人間はこれ程までに小さく無力なのか、と改めて思い知らされ愕然とする。平時は地球上において「万物の霊長」などと主(あるじ)の如く振舞っているが、一たび自然が本気をみせると一溜まりもなくねじ伏せられ、ただ逃げ惑うしかない。

国際ボクシング協会のルールブックによると、対戦相手の腕を抱え込んだり、下に押さえつけるだけで反則なのだそうだ。ましてや相手のガードを下に押さえつけておいて顔面を殴るなどという行為は観ている側にとっても恐怖である。「地震」そして時を移さずして「津波」という一連の現象は人間が自然から被る地球規模の反則技に思える。家屋を倒壊させ、塀を倒し、崖を崩し、道路を寸断し、退路を断っておいてから大波をぶちかましてくる。自然が繰り出す恐怖の反則技を制止してくれるレフェリーはいない。

かねがね思っていることであるが、「地震予知」って何? というところである。「今後○十年以内にどこそこ地方にマグニチュード○以上の地震が発生する可能性が○パーセントある」という情報。無いよりはあったほうがいいのかも知れないが、建物の耐震強度を高める意識を喚起する効果がいくらかはあるにせよ、最終的には「いつでも避難できるよう非常袋を備えておきましょう」「避難場所と経路を確認しておきましょう」という結論になるのではないか。

「避難しましょう」・・・どこに? 津波が来ても水没しない山の上の堅牢な公民館?

「逃げましょう」・・・どうやって? 地震で倒壊した瓦礫の上を津波より速く走って?

素人の私が考えるに、人間が地震を防ぐ、つまり地面を揺らさないようにするというのは不可能であるように思う。揺れに対しては耐えるしかない。しかし津波は防げないにしてもその衝撃を和らげることはできるのではないか。極々小さな規模では「防波堤」や「消波ブロック」が既に存在する。実際の津波の破壊力を知らない子供じみた発想と非難されるのは承知であるが、地震を防ぐことと比較すればまだ可能性はあると思える。莫大な費用がかかるであろうし、人間の存在よりも自然の景観を重視する人がいればひょっとすると「美観を損ねる」といった意見があるかもしれない。人間がいなくなれば「美観」を認識する主体もなくなるのであるが、ならばボタン操作で海底からせり上がる防波装置というのはどうだろう。いずれにせよ今は「両手ぶらり」のノーガードであり、被災すれば何百億円、何千億円とも知れぬ損害が生じるのである。そして何よりも日本国の国民の生命にかかわることなのだ。

地震や津波が今後も必ず襲ってくると分かっているのであれば、それに対して正確に予測して、積極的に防御・応戦するべきか、それとも人間なんてものは自然に対し逆らわぬばかりか「ただ逃げ惑うだけ」の存在でいたほうがいいのか。

ネットでは「関東から四国でも大地震のリスクは上昇している」との記述を目にする。明日は我が身どころか「今夜は我が身」かも知れない。

被災地の方々のご無事と一刻も早い復興を切に祈ります。

  2011年3月14日 川﨑 浩